Short Story
アクシオマタ
by Daniel Couts

アクシオマタ

by Daniel Couts

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アクシオマタ
by Daniel Couts

この川は死の世界の記憶を運んでくる。「記憶」を見つけられるのは、もしかしたら自分だけなのかもしれない。

川の向こう岸には、父が日々世話をしているツタが見える。イシュタルの周囲にぐるりと巻き付いたこのツタは、ルーンテラに残された最後の地と、そこに住む人々を守護しているのだ。上流を見ても下流を見ても、くるりと丸まった葉やツタが朝日の届くところまで延びている。ここに来るたび、光の届かない暗闇のなかにヘビやジャガー、その他の危険な生物が潜んでいるのではないかと思う。母はそうした獣を狩り、わたしたちの住むセムチュルの村を守り、皆に肉を持ち帰る役目を負っている。両親は、わたしも同じ人生を歩むものと思っていた。大きくなったらツタの世話をする「庭人」になるか、「狩人」になるものと。

わたしはそのどちらも選ばなかったが、父と母の教えは自分の進むべき道を示してくれた。

ローブを脱ぎ捨てると、わたしは半透明の絹糸で編んだワインドコードを、一巻きずつ両手に巻き取った。23年間にわたり「アクシオマタ」を研究してきたおかげで、すべてを空で覚えている。コードに意識を集中し、そこに記されたエレメントを放つのだ。その研究はエレメントを制御する術や理解、知恵を授けてくれた。しかしコードがなければ自分も普通のイシュタル人と同じで、優れた力を発揮することはできなかった。

素足で川床の泥に足を踏み入れ、露出した腰回りが水に浸るくらいのところまで川の中を進む。そして足先で、泥に埋もれた木の根のあたりを探る。目当ての物はそこに引っかかっていることが多い。根を見つけたら、コードの出番だ。

両手をさっと挙げ、キャンバスの上に筆を走らせるようにコードを一振りし、記憶のなかで第五アクシオムのラインをたどる。するとそれに応じるように水面が波立つと、空気の球がわたしの周りに拡がり、川床に向けて徐々に足元の水が押し分けられてゆく。水は新たに作り出された水流に抗い、不自然に分かたれたその空間に押し寄せようとするが、わたしの術は持ちこたえ、川底の泥や石、曲がりくねった根があらわになる。絡み合った根のなかに、イシュタルの外のどこかからやってきたものが引っかかっている。失われた世界の記憶を伝える物といって、もはやこうした古い遺物しかないのだ。

時間の経過や潮流の影響を受けずに姿かたちを保っている遺物がしばしばあることからしても、こうした古代文明は驚異的なものだったに違いない。今日の収穫物も状態はいいようで、かすかな陽光を受けた銀色の物体のきらめきが、目に飛び込んでくる。訓練のたまものである集中していた意識が、にわかに喜びに変る。わたしは笑みを浮かべて腰を降ろし、木の根のそばの泥の中にあぐらをかく。手で掘ると、継ぎ目のない鋼鉄製の、柄の短い斧が姿を現す。美しい。

幾千年もの昔の戦を、思い浮かべる。ルーンテラを呑み尽くしたバケモノの前に立ちはだかる、勇敢な戦士の姿を。そして、こうして気高くも絶望的なその苦闘に思いを馳せる機会が得られたことに感謝する。腰を下ろしたまま近くに寄って、わたしは泥に指を突っこみ、防水になっている宝箱を探す。

宝箱を見つけ、掛け金に指を触れる。この掛け金は、アクシオマタにある程度精通していなければ外せない。見つかったときのために、昔から用心しているのだ。箱の中には、長年の間に見つけた、保存しておく価値があると感じたさまざまなものが隠してある。ユン・タルになったら、宝物をイシャオカンに持ち込んで歴史家に詳細を記録してもらい、他の学者とも共有するつもりだ。親愛なる師であり、イシュタル随一の天性のエレメンタリストであるミヴァシムは、「外の世界」、ナシアナについてわたしが興味を抱いていることを、たびたび責めてくる。だから、宝のことは今は秘密にしている。わたしはその斧を銅の兜の横にしまうと、手首を返してバタンと箱を閉じる。

閉じた瞬間、心臓が飛び上がりそうになる。

ワインドコードがない

そんなことは起こりえない。わたしは無意識の内に掛け金をかけ直した。こういう芸当ができるのは──ふさわしいのは──ユン・タルだけだ。泥の中を探し回るが、コードはどこにも見当たらない。パニックと喜び、そして恐怖がわたしの中でせめぎ合う。それから川が分かたれたままになっていることに気づく。自力でコントロールできている。

ツタの壁に向き直る。それはイシュタルの国境だ。ある想像が浮かびわたしは高揚感を覚える。自分で作り出した防護膜に守られて、生命無き土地を逍遥しているわたし。そこには疑問への答えが満ちている。

その想像へと二歩踏み出したところで、水が跳ね、わたしの身体はまた雷鳴のような轟音に包まれる。本能的に辺りを見回し、危険を探す。水中にサメがいるのか、頭上に鷹がいるかもしれないと予期するが、目に飛び込んできたのは向こう岸に立ちはだかる人影──我が師、ミヴァシムだった。彼女のユン・タルのローブは辺りの薄闇よりも暗く、体格は年を重ねても衰えていない。ミヴァシムの翡翠色の眼差しが稲妻のようにひらめき、わたしを包んでいた空気の球がしぼんでゆく。ミヴァシムは手を振る素振りも見せずに、川の流れを加速させ、水は唸りをあげる奔流へと速度を増す。うまくやれていると思っていた。自分だけの秘密の場所を持っていると思っていたのに。ミヴァシムは、はなから知っていたんだろうか?

私を守っていた波動が弱まるとともに、水が押し寄せてくる。このままでは流されてしまう。けれどミヴァシムには怒っている気配はなく、こちらに向けて、さっと片手を広げて突き出す。なじみ深い動作だ。うまく「弁証」できれば、罰を受けずに済むだろう。

水しぶきが身体に打ちつけるが、そこにはパターンがある。ミヴァシムはこういうとき、二人の間に交錯するアクシオマタの仮定線を描き出すのだった。

これは罰ではなく、試験なのだ。長年わたしが解くことを練習してきた、パズルなのだ。故郷セムチュルの簡素な図書館の周りを歩く自分の姿を思い浮かべ、わたしは師に対して反証をはじめる。

ミヴァシムの元へたどり着いたとき、師の誇らしげな笑みにわたしは勇気づけられるが、身体は限界だった。ミヴァシムは両手を広げ、崩れ落ちるわたしを抱きかかえた。

「教え子よ、時は来た」薄れゆく意識の中で、わたしは師の囁き声を聞いた。「イシャオカンに行き、ヴィダリオンの下で反証を行う時が来たのよ。あなたがユン・タルにふさわしいかどうか、私たちの審判を受けるのです」


イシュタルの首都に向けてわたしたちは一週間歩みを進め、かつてないほど奥地まで来たが、休息のために立ち寄る村々は故郷の村よりもひなびて見えた。

「ここの人たちは、本当に恐れるべきものがあるのですか?」ペスランで歓待してくれた人々に別れを告げてから、わたしはミヴァシムに尋ねた。「父は国境の維持に携わっていますが、怖がるようなことはありません」

「『狩人』であれば、ジャガーが襲い掛かってきてもひるまないでしょうね」ミヴァシムはそばに浮かべた包みを何とはなしに上げ下げしつつ、歩きながら答える。「でも遠くに聞こえる唸り声というものは、大胆不敵な鍛冶屋でさえも逃げ出させてしまうものなのよ」

道すがら、二人の子供が急いで村へと戻る姿が目に入る。「人は未知なるものを恐れるのだと思うわ。物事が変わってしまう可能性をね」

師は何かについて思い悩んでいるようだった。わたしは二人の頭のすぐそばに垂れ下がる、光沢のある幅広の葉を押しやる。「私たちの置かれている状況は、歴史上、類のないものなの」師はため息をついた。「あなたの父が自分の仕事の大切さについて語った話を、もう一度聞かせてちょうだい」

火を囲む、家族の顔が頭をよぎる。それはわたしの記憶にある限り、最初の焚火だった。この道へとわたしを駆り立てたのは、家族が聞かせてくれた物語だった。語り部のような囁き声で、わたしは話しはじめた。「『最後の戦争』の後、混沌の時代が訪れた。それは怪物どもと死が席巻する、動乱の世であった」

言葉尻に余韻を残してみたが、ミヴァシムは特に気にする様子も見せず、わたしは語り続けた。

「我々が絶滅寸前まで追い込まれた時、民の中で一番の賢者──最初のユンが、イシャオカンの『アクシオマタ』を武器に変え、敵を残らず制圧し、我々は国境を封じた。そうしてここは、破滅的な時代を生き延びた唯一の地となったんだ」

「残りの世界は毒されてしまったが、イシュタルの保護のもとにある我々は、他のすべてを呑み込んだ破滅から守られている」わたしは笑顔を作って、みぞおちを拳で叩いてみせた。「だからこそ、いいか、セムチュルの偉大な庭人は、またそういう暗黒の運命に陥らないようにイシュタルを守らなければならないんだ!」

ミヴァシムは笑みを浮かべ、その顔に穏やかな皺ができた。その皺は、長年わたしや他の教え子たちと過ごしてきた充実した時間によって作られたものだった。「だから庭人たちにとっては、私たちの密林に侵入してくるあの恐ろしい機械も、その『毒』の延長にすぎない、そうよね?金属の脚を持つ『瘴気』の延長に」

目の前の道が曲がり、開けて、遮るもののない淡い日光がわたしの顔に暖かく降り注ぐ。「そうです」とわたしは答える。「もっとも、ユン・タルの方がああした機械と戦う備えがあることは確かですが」

「それでも、それは現実の問題で、現実的な解法がある、と」

「そうです」

「そして、あなたは学者だから、自分以外の視点から論証することや、自分とは異なるものを理解する術を学んでいるのね?」

わたしは大きく笑みを浮かべる。「はい」

「だからこそ、国境の庭人のような誇りも経験も持たないただの村人、例えば『商人』は…

…この問題を実体のない抽象的なものと見なし、その反応も感情に根差したものでしかない」

「まさにその通りです」

「ただし…」わたしは両手をどこへともなく動かし、語尾を引き伸ばしながら言葉を探した。「ただし、村人が知らないさまざまなことを教える形で、状況を人々に説明することができれば話は別です」

ミヴァシムは頭を振った。「商人は、商売に精力を注ぐものよ。娯楽にも精力を少し注ぐかもしれないけど、あとは家族に尽くす。それ以外のことはすべて、邪魔でしかないの」ミヴァシムの声に皮肉が混じり、打ち解けた会話口調に戻ったようだった。「商人たちは狡猾な主人にこき使われて、こんなふうに何十年も恩恵を受けられない」

わたしにはうまく言い返す言葉や知恵が欠けていた。「それに、彼らは安心できるような経験もしてこなかった。わかっています。ありがとうございます、ミヴァシム」

しばし無言の時が過ぎた。「一意専心は、イシュタルにとって有益なのよ。あなたが狩人でなくてよかったわ、サムカ

わたしは明るい陽射しのなかで笑顔を浮かべた。


イシャオカンは広大だ。都市は地平線の端から端まで延びているかのようで、木々のはるか上に、背の高い「アーコロジー」の磨かれたような尖塔がいくつも立ち並んでいる。イシュタルの壮大な首都へ一歩近づくごとに、新たな景色、新たな輪郭が目の前に開ける。

中枢アーコロジーは、遠くから見ても堂々としたものだが、間近で見るとその存在感は圧倒的だった。

威容を誇る北門を通り過ぎるとまもなく、わたしたちは色と音の洪水に飲み込まれた。子どもたちがあちこち走り回り、子守がその後を追う。行商人や理容師、占い師や職人がせわしなく行き交っている。ミヴァシムの黒いブーツは石畳にカツカツと音を立て、ジャングルにいたときよりも威厳が感じられる。群衆は深い黒と紫のユン・タルの織物を身にまとったミヴァシムに、最大限の敬意を払っていた。イシャオカンとセムチュルにはさまざまな違いがあるが、ユン・タルに対する絶対的な敬意は同じだった。

「ミヴ?ミヴ!」前の方から叫ぶ声が聞こえる。

ミヴァシムは「ああ、ピンカン」と悪態をついたが、すぐに模範的な礼儀正しい態度に戻った。目の前は十字路で、その上には十字の屋根が掛かっていて、食事客が豪奢な椅子に座ってくつろいでいる。体格のよい老人が猛烈な勢いで手を振っていた。目は緑で、髪は生えていない──そして、ユン・タルの黒いローブ。「チウケさん!」ミヴァシムは彼に呼びかけた。「予定より早く到着なさったのね!」

フルネームを知るまではうかつに名は呼べないが、そのチウケがドシドシと足を踏み鳴らして近づいてくる。背後には、わたしと同じような研究生用のローブを着て目を輝かせた十数人の見習いを従えている。「うむ、早いのはいつものことだろう?ターケンは人里離れたセムチュルよりはずっと近いからなあ」

抱擁を交わそうと近づいてきたチウケに対し、ミヴァシムは場慣れした優雅な仕草で応じる。

「ああ、ミヴ。最後に会ってからずいぶん経つぞ。指導をして…」とチウケは言いかけた言葉を飲み込んだ。ミヴァシムの教え子たちがどこにいるのか探しているのに違いない。わたしを見つけるまでにだいぶ時間がかかった。「指導を、その、続けていたのだな、ん?」

「ええ、それからセムチュルへの務めも」ミヴァシムは気取られないくらいわずかに後ずさりした。気づいてはいないようだが、チウケもその動作につられて身を引く。「田舎では、研究生たちが研究に費やせる時間は少ないのです。それに、もっと現実的な目標を追うために辞めてしまうことも多いから」

「ああ、自然のなかで育っていたならな。わしはきっと最高の狩人になっていたはずさ!」チウケは太い腕を伸ばし、後ろに控えた教え子たちをさっと示した。「だが、自分で言うのも何だが、十分いい師匠にはなったと思うぞ」

チウケが笑うと、媚びるように追従して教え子たちも笑った。ミヴァシムはそれを見ていた。「それはヴィダリオンが証明してくれるに違いありませんわ」ミヴァシムは冷静に答えた。

赤い髪の小柄な見習いが、丈の長すぎるローブに躓いた拍子に、エレメントを暴発してしまう。炎が吹き出し、気の毒な商人の羽根ぼうきに火が付く。商人は悲鳴を上げ、凝った装飾の水差しから水を注ごうと悪戦苦闘するが、炎はパチッと音を立てただけだった。

「チウケスラン!」ミヴァシムは鋭い声で注意すると、その手が優美な曲線を描き、炎から空気を取り上げた。

商人は祈るように手を組んで近づいてきた。「何ということでしょう。栄えある諸賢の皆さま、本当に申し訳ございません。商品をきちんと片付けていなかった私めをお許しください、これは、その…」

「よい」とミヴァシムが言うと、チウケスランは「おお!」と大きな声を出し、教え子の背中を叩いた。

「見たか、これぞ才能というもの!いかに素早く火を消したか覚えておけ!」とチウケスランは教え子の一行を連れてまた街の中へ取って返し、肩越しにわたしに呼びかけた。「幸運を祈るぞ、ミヴの教え子よ!」

商人はおびえながらミヴァシムを見つめている。「すみませんでしたね、商人のお方」ミヴァシムはそう言って、甘く熟したパパイヤを二つローブから出した。前に立ち寄った村でもらったものだ。それを商人に渡すと、ミヴァシムはわたしをそばへ引き寄せた。

「あのチウケスランという男は…」とわたしが口を開いたところに、ミヴァシムが割り込む。

「…ユン・タルよ。どんな人間かはさておき。あなたはこれまで数人しか会ったことはないはずね、サムカ」ミヴァシムはわたしを急かすような態度をとって、人でごった返す大通りを進んでいく。「あれは残酷な教訓だけど、あなたもすぐにわかるでしょう。彼のことやイシャオカンの雰囲気に気を取られて、集中を乱されることのないようにしなさい」


火を起こしてしまったチウケスランの教え子は落第となる。しきたりでは、落第した者は静かにイシャオカンを去らなければならない。

彼は研究に人生を捧げてきた。おそらくあの男は、商人か仕立て屋か、語り部にでもなるだろう。今後の幸せを願うが、もう決してユン・タルにはなれないのだ。仲間たちは虚ろな様子で、沈んだ目つきで気落ちしてしまっていた。男の身に起こった出来事は、仲間たちにとっては心をくじくものでしかなかったが、わたしはそれで覚悟を強くした。

数日が過ぎた頃には、合格する者、落第する者、心折れる者は誰なのか、見当がつくようになっていた。それが見えるようになってわたしは、彼らのために泣きたいような気持ちになった。

だが、目の前の試練のことだけを考えるようにする。


ついに、その時は来た。イシャオカンの中心に足を踏み入れると、その床には曲がりくねった無数の線が刻まれていた。その複雑な図形の中にはエレメントの言語が隠されていた。そこかしこに知っているアクシオムがあり、自分がだんだんその中に消えてしまうような感覚を覚える…

気を引き締めるんだ

わたしは意識を集中させる。頭上には、広大な空間を取り巻くギャラリーがあり、ユン・タルたちが、さまざまな夜の色合いを持ったローブに身を包んでそこに立っていた。その一人一人が、欠けるところのない賢者だ。エレメントの業を極めし者たち。

そのアーコロジーの中央広間は上下二層に分かれていて、下には、わたしが反証を行う場所となるアリーナがあり、上には、幅広のとてつもなく重たい石の輪がある。その重量は、建築工学というより魔法によって支えられている。その上下を分かつ部分に、幅の広い魔法の輪が渦を巻いている。輪がどれほど深く地中に刺さっているかは、窺い知ることができない。

その輪のはるか上空に浮かんでいるのが、偉大なる織り機ヴィダリオンだ。周りには黄金色の合金が後光のように輪をなしていて、織り機は絶え間なく糸を紡いでいる。その縦糸と横糸の下で、わたしは反証を行い、成功すれば、ユン・タルの証となるローブが織り上げられる。

今日、わたしは波動を極めてみせる。わたしは床の模様の中央へと歩みを進める。

そこにほとばしる力に──アクシオマタによって一点に集中させられた純然たるエレメントの力に、目がくらむ。圧倒的だった。わたしは台風すれすれを飛ぶハチドリだ。瞬きをすると、広間はまだそこにあった。

ミヴァシムは頭上のどこかに立っている。だが彼女の目線を捉えることはできなかった。神経の張り詰めたわたしに向けて、あらゆる角度から視線が注がれていた。それは「賢明なる者」と言われるユン・タルたちの視線だ。

「アリアイ・クンラン」わたしの名が室内に響く。きっとイシュタル中にも鳴り響いている。「そなたはすべての中心に立っている。全人類の目がそなたを見つめている。反証せよ」

ヴィダリオンが回りはじめ、生地から糸がほぐれてゆく。手を伸ばし、わたしは下りてきた宵闇色の糸を掴む。


「その割線(かっせん)を切ってしまったな」きっぱりとした否定の声が脳裏に聴こえ、糸の一部が光を放つ。「それでは気圧ではなく温度に影響が出る」

わたしは声を無視する。もっと多くの糸を掴み、次の線に沿わせなくては。数秒間、限界まで集中力を高めると、自分の口が答えを発しているのが聞こえる。「気圧と温度は姉妹です。わたしが空間を制御する間は、この方がより強力な効果を生む」そのユン・タルの、ミスを指摘する仄かな明かりが消え、わたしは作業に戻る。心のどこかで、自分より高位の者の批判をいとも簡単に反駁してみせた自分に脅威を感じる。

そんな心理も今は捨て去る。

また別の声がする。「そなたのアクシオマタには11の接線が含まれている。それぞれの接線には平行線が伴われるのが慣例だ。非連続のパターンを結合させるとき、そうしないとバランスを欠く恐れがあるのだ」

わたしはミヴァシムのことを考える。それは若き日の反抗的なわたしにヒントを得て、ミヴァシムが考案したアクシオムだった。

「慣例とは物事への精通とは異なり、修辞的なものに過ぎません」わたしは答える。「この結合は第三アクシオムを補完し、第五アクシオムに力を与えます。この二つにより、アンバランスは打ち消されます」

返答は沈黙だけだったが、視野の右端で衣服が動いたのが見えた。墨色と翡翠色のローブをまとった、錆色の目の女性だった。一身に尊敬を集める次世代のユナライの一人だ。分かったかのような笑みが、わたしの心に爪を立てる。

先を急ぐ。

既存のアクシオマタは完全なままで、持ち堪えている。自分という縛りをはるかに超えた存在となるにつれ、最初にわたしが感じていた不安や恐れは次第に薄れ、残響のように心中に消えていった。わたしはイシャオカンそのものであり、今この瞬間、世界全体が持ち得た力よりもさらに強い力を行使している。心中の見取り図に沿って、その次を探索する──

ドクン、ドクン

そして…鼓動が停止する。ひとつの鼓動、かすかな時間の乱れ。わたしは目を上げ、外壁の向こうの謎めいたうねりを凝視する。それは支離滅裂なタペストリーの糸のように激しく顫動している。

その抽象的なもつれの中、わたしに呼びかけている何かがあった。

何も考えず、わたしはそれに手を伸ばす。

そこは中枢アーコロジーではない。わたしは今ジャングルを超え、イシュタルを飛んでいる。

眼下にアクシオマタが見える。その描き出すパターンのどれをとっても、ひとつのアーコロジーに焦点を絞っているわけではなく、また多くのアーコロジーに焦点があるわけでもない。それは全世界に敷衍されたパターンなのだ。わたしはイシャオカンを取り囲むラインの一つに乗って、一瞬で故郷セムチュルにたどり着く。なじみ深いアーチや、見つからないように昼寝した秘密の隠れ場所。わたしは笑みを浮かべる──

だが、すでにセムチュルを通り過ぎている。何かがおかしい。

わたしは目を見開き、死の世界と生の世界とを隔てる手入れされたツタに突っ込み、無へと足を踏み入れる。自分が消え去るものと身構え、終わりを見極めようと目を細めながら。だがそれは起こらず、わたしは豊かな緑の大地にうえに舞い上がる。どこまでも、どこまでも開けた野原を、生き物たちが跳ね回っている。イシュタルそのものと同じくらいの幅のある川を、わたしはかすめ飛んでいく。

気が狂ってしまったに違いない。これは最期の瞬間に見える走馬灯なのだろうか?

わたしは試験に落ちたのか?

見えるのは、山々や渓谷、そして人々。人々が見える。わたしは──

わたしは、どこか寒い場所で止まった。白い。雪が激しく吹き付け、目がくらむ。

その背後には、力が存在する。アクシオマタがここで交差している。だが、そんなはずはない。

毛皮や骨を身につけた集団が訓練に精を出している。いや、これは戦争だ。棍棒が頭蓋骨にめり込む。手を伸ばす。白い粉がもうもうと巻き上がり、わたしはその現象から自由になる。背の高い男が、わたしの目を見つめる。身体をひねり、わたしを探す。男は氷から槍を作り出す。

この蛮人はイシュタル人ではないのに、どうしてアクシオマタを使えるのだ?

男の魔法はわたしたちのものとは違う。どこか別のところから来たもので、わたしには届かない。しかし男の槍は的を外したが、その存在がわたしを叩きのめす。その存在自体、間違っている

イシュタルの外には何も存在しない。何も存在しな──

一瞬にして眼前の光景が消え、身体のなかには虚空があった。血管を流れる血の奔流が、その空隙を埋めようと押し寄せ、耳鳴りがする。理解の追いつかない素早さで、頭の中、すべてがつながっていく。

当然だ。すべては。当然、世界は死んでなどいない。当然、ツタという薄く脆い幻想のベールに覆われて、イシュタルだけが世界の終わりを免れるはずなどないのだ。当然、わたし一人だけが、空気の繭に包まれて世界を旅する冒険者になるなど、あり得ないではないか。何と愚かな。わたしは父のことを、自分の仕事に心から誇りを抱いている庭人達を思った。彼らは本当の目的をまったく知らないのだ。

頭蓋骨の中で、眼球がズキズキと疼く。新たな発見に興奮して鳥肌が立つと同時に、わたしの残りの全存在は、受け入れまいとしている。ユン・タルたちには間違いなく、震えながら早鐘を打つわたしの鼓動が聞こえていることだろう。しかし、彼らは動かない。

突然、幼い頃の記憶が蘇り、残されたわずかな意識も奪われる。その記憶の中で、わたしは川で見つけた最初の遺物をミヴァシムにうやうやしく差し出している。その時のミヴァシムのためらい。わたしはてっきり、彼女がわたしの尽きない好奇心に感心しているのだと思っていた。ミヴァシムは、あの日、わたしを教え子として受け入れた。わたしは自分のささやかな理論を述べることに喜びを覚えたものだった。ユン・タルになって、ミヴァシムのような賢明なる者たちとともに未踏の地の地図を作ることに、わたしは、どれほどの期待を抱いていただろう。

さぞかし愚かに見えたことだろう。

イシャオカンの力が、わたしの身体の震えを鎮める。寒気は収まり、鼓動が落ち着きを取り戻す。しかし、その空白に、堰を切ったように「怒り」がなだれ込んだ。イシャオカンですら、それを止めることはできない。裏切りと恥と悲しみの奔流。

私の感情は醜悪な何かに捕らえられた。わたしは震える拳の中にイシャオカンの力を握りしめた。この広間を叩き潰し、琥珀に囚われた虫のように、こいつら一人残らず、閉じ込めてやる。イシュタルの古代の力の中心に組み入れられたわたしには、それをするのが至極容易なことに思える。

わたしを救ったのは、二十年間積み重ねてきた修辞学的、哲学的な論究だった。感情的な訴えに対して繰り返し投げかけてきた、「その感情の裏にある真実は何か?」というシンプルな問いかけだった。狂気の淵から自分がこれほど早く回復できたのも、唯一可能な結論にたどり着けたのも、ミヴァシムのおかげだと言わざるを得ない。

これこそが試験なのだ。

ユン・タルたちは、幾世代にもわたってこの幻想を維持してきたのだ。世界は単純に説明したり言い表したりできるものではなく、自らの目で見なければならない。そして人は単純に物事に反応するのではなく、そこから脱し、理解へと到達できなければならない。これほど多くのユン・タルが集まっている理由に思い至り、絶望の笑いが込み上げたが、わたしはそれを内面に押しとどめた。集団でなら、この地点にたどり着き、感情に呑まれてしまった者がいたとしても、造作もなく息の根を止められるだろう。その者が、イシャオカンの力を振るったとしても。

怒りは収まり、決意へと変わった。わたしは室内を見渡し、頭上に立ち並ぶ賢明なる者の一人ひとりと目を合わせた。わたしの双眸は今こう語っている。わたしはあなたがたの試験に合格した。後は儀式だけだ、と。

この現実に潰されはしない。わたしはパターンへと、途中だったアクシオムの形成へと戻る。

ユン・タルたちは黙したままわたしの行いを見つめていた。


完成だ。そのアクシオマタには、わたしが空気と水、そしてそれらの融合によりできるあらゆる存在を完全に理解しており、コントロールできることが示されている。わたしは外の世界で見た、あの男のことを思う。頭上では、ユン・タルがわたしのアクシオムの糸一本一本を精査し、ミスを探している。何も見つからないだろう。

彼らの決断が下ったとき、大気中の何かが変移し、わたしは地球の引力から解放され、身体がゆっくりと回転するなか、身を起こし、再び、我が師の目を見つめた。長年の嘘を恥じる気持ちや罪悪感、後悔をそこに見ることを期待して。しかし、そこにあるのは「誇り」だけだった。

わたしは笑いをこらえられなかった。ヴィダリオンが回転速度を上げ、模様の刻まれた床の上にわたしが配置した糸のなかに、残酷なクモの巣のように絡めとられながらも、わたしは笑っていた。

魔法が体内から流れ出し、痛みを覚えた。ユン・タルたちが声を揃えて詠唱している。その意味はわからないが、光の糸がたなびいてわたしの周りに巻き付き、輝く虹が腕や脚のまわりにするすると巻かれてゆく。

そしてわたしの身体は浮かび上がり、ヴィダリオンと、今まさに生みだされようとしている布地との間に据えられ、しびれていた手足が感覚を取り戻すように、力が戻ってくるのを感じた。

糸が布地へと変わったとき、わたしはその力を感じた。自分がユン・タルであることを。

身体が下降しはじめると、詠唱の声はますます勢いを増した。無表情だったユン・タルたちの顔に喜びの笑みが弾けるが、そこからは何の温かみも感じることができなかった。


わたしはあの宝箱のことを、古代の遺物のことを夢見る。

己の愚かな情熱を。わたしは何十年もの間、「外の世界」を心のなかに思い描き、自分が知りえたものをどうしてもユン・タルと共有したいという一心で過ごしてきたのだ。若く、愚かで、知ることを熱望していたアリアイのことを、わたしは想う。アリアイのためにわたしが願うのは、「復讐」とまではいかなくとも、それに近いものだ。

時間の外のどこかから、「目が覚めたのね」というなじみ深い声が聞こえる。目が覚めているようには思えなかったが、そこには快適なベッドと温かい火鉢があり、心配顔の師がいた。尋ねたいことは山ほどあるが、残念ながらわたしはもう、すべての答えを知っている。

「覚めました、ミヴァシム」わたしの声は思ったよりも滑らかで、涙で声が詰まったり、怒りで荒々しく響くようなこともなかった。

ミヴって呼んでちょうだい、これからは」とミヴァシムは答えた。「もう同士だもの」

それからしばし沈黙する。本当に長い年月を共に過ごしてきたが、ミヴァシムが言葉を失うのは今日が初めてだ。

ようやく、彼女は口を開いた。「私も師に対して本当に腹を立てたものよ。何日も口を利かなかったわ。私は…私はただ、あなたが大丈夫か確かめたかっただけ。でも、休みたいなら出ていくわ」

休息など欲しくない。わたしが欲しいのは行動だ。

しかし外見上は、わたしは落ち着いていた。「あなたはしっかりわたしのために準備してくれた」

「そうかしら?お願い、あなたの考えを聞かせてちょうだい」教え子時代によく耳にした質問だったが、正答を期待されているわけではない今は、不思議な感覚を覚える。今は同士なのだ。

他のユン・タルのように芝居を打つ練習をできるだけの時間は経っていなかったが、わたしには必要ない。今や自分も巨大な嘘に取り込まれているが、わたしはその嘘を理解している。その嘘の根本形態を差し出せば、後はミヴァシムが引き取って、彼女が細かい点を補い、この会話は終わるだろう。安心感と誇りが彼女には必要なのだから。

「ユン・タルはイシュタルを保護しています」とわたしは宜う。「イシュタル人の誰もが、一度ユン・タルが取り決めたことは、絶対だと理解しています」

話すうちに、自分らしさを感じてくる。それはいつものわたしの弁論術であり、心地よい。

それでもなお、わたしは自分の感情に反感を抱く。少しだけ。

「ひとつひとつの決定は、幾百万条もの細糸から成り、それは弁証や発見、新たな視点から学び得られるものです。それらの糸を理解している者は、完璧な決定を下すことができます」

わたしはミヴァシムの顔を見て、承認されていることを確認したい気持ちに駆られた。自分が正しい道にあることを、見てもらいたかった。だからわたしはそれをこらえ、目が痛くなるほど火鉢の火を睨み続けた。「つまり、ユン・タルは『決定』の重荷を背負っているのです。イシュタル人にとって──ついさっきまでは、わたしにとっても、わたしたちの土地は閉ざされた世界です。道中二人で話していたように、わたしたちはそうした細糸のうち、他の者には、本人が受け入れられるものだけを明かします。そして…」

自分の考えが正しいことを示してくれる、短く確かなうなずきを求めて、わたしはこらえきれずに向き直った。「初期のユンたちは想像を絶するようなこのジレンマを経験しました。外の世界から民を守るには何が最善なのか。彼らは、人々を閉じ込めておくことを選びました。もし知恵の足りないものが道を踏み外してしまえば、イシュタルは終わってしまうかもしれなかった。だからユン・タルを生み出す厳しい研究制度が設けられたのです」

それは正当性を主張できる論だった。それでも、わたしは嫌悪した。

わたしは結論を述べた。「つまりどういうことだったのか。ユン・タルは何世紀にもわたり議論を重ねた。にもかかわらず、その決定を覆しえる提案をできた人間は、ただの一人もいなかった、そういうことでしょう」

平穏無事な現状維持に甘んじ、いつか究極の賢者が現れ、次の一歩を踏み出すことが正しいと確証してくれるのをただ待っている。そこには何かの「間違い」がある。心ない「欺瞞」という以上の何かが。

わたしは、その間違いについて正しい言葉で述べるために、一生涯を費やすだろう。現状維持を相手に、闘うだろう。

ミヴァシムはこちらに向き合ってうなずき、敬意を示した。「ヴィダリオンの下に立ってから、あなたと同じ結論に至るまで、私はもっとずっと長い時間がかかりました」ミヴァシムは立ち上がり、手を差し伸べた。わたしはその手を取って、ふらつきながら立ち上がった。「いらっしゃい。食べるのよ。私たち年長者は心を分かち合う用意のある他の人と、このことを祝福しなければならないわ」

また、あの古い宝箱のことを想う。

わたしはその蓋を開け、中に自分の怒りを入れ、封印することを想像する。

顔に、疲れた笑顔が浮かぶ。「行きましょう」


中二階から、騒々しい広間を眺める。食べ物があちこちに運ばれ、議論に花を咲かせたり、あるいは物語を聞かせたり、踊りに興じている人々のテーブルに、所狭しと並べられる。新人のうち何人かは、わたしと同じくらい激しい怒りを抱いているように見えたが、みんなそうなのだという仲間意識や安心感が、その不満をなだめていた。エレメントがこれほど確固たる指揮下に置かれることは他の場所ではありえないことであり、大半の新人は、早速新しい華やかな人生を歓迎しているようだった。

ユン・タルは崇拝される存在だ。わたしもかつては、彼らを完全無欠の賢者と呼んでいた。真実を追い求める者と。わたしは外の世界を研究し探索してきたが、それを彼らと分かち合いたいと強く願いながら、ささやかな遺物を集めていた。ルーンテラの名誉である、賢明なる者たちと議論するに足る人物になりたいという希望を胸に、わたしは研究に励んだ。

今見ると、その彼らは、脆弱に見える。

「ふん、ふさぎ込むのも当然よね」腕輪をつけた手首が欄干にしなだれかかり、金属音が響いた。「ラバが生まれた時のお祝いの方がまだマシだったわ」

試験の時にいたユナライだ。小柄な体つきにもかかわらず、空間いっぱいにその存在感が行きわたった。横柄な口調は敬意を払うよう要求しているようだったが、どうやってそれを示せばいいのかわからない。

わたしは単純にお辞儀をした。「お話を伺えるとは光栄です、名誉あるユナライ様」

彼女は軽く鼻で笑った。「私に名誉をくれたのは、家柄じゃないわ」彼女は一瞬こちらを見つめ、わたしが反応できずにいると、言葉を続けた。「はっきり言って、知らないなんて不快だわ。キヤナよ」

キヤナ。毒気ある「威信」をこめて彼女は自らの名を口にし、羞恥心でわたしの顔は赤らんだ。「お許しください。イシャオカンから遠いところで暮らしているものですから」

「まあいいわ。いま知ったんだから。来なさい。アヤって呼んでもいいかしら?」

それは質問ではないようだった。キヤナの後を追ってバルコニーに通じる開け放たれた扉を抜け、夜の中へ出た。この時間でもイシャオカンは賑わい、灯りが輝いていた。

「試験のあいだ私はね、アヤ、とっても輝かしいものを見たのよ。原始的とさえ言えるものよ。空にぐっと爪を立てて、それはアーコロジーの中でしか見れない力だった!はるか遠い場所にあって、それを手にするために多くの人々が争ってきたの」

「わたしも似たものを見ました」と答えると、キヤナは強くうなずいた。

「だと思ったわ!あのとき私は『間違ってる』としか思えなかった。イシュタルの外にそんな場所が存在するなんて。しかも監督者のユン・タルもいない状態で。アヤ、あれはひどい気分だったわ」

わたしはキヤナの言葉に親近感を覚えた。

現状維持を敵とする者が、ここにいた。

「私たちユン・タルは、この世界を知り尽くしていることで尊敬を集めている。でもねアヤ、イシュタルの外にはどれほど大きな世界があるかってことよ!ユン・タルは導くことはできても、行動は起こさない。でも一人で抱え込むにはその決定は重すぎるってわかってる人もいると思うの。怖がっている人もいるかもしれないけど」

その話しを聞いて、わたしにはキヤナは恐れていないことが分かった。彼女の歩みを後押しし、揺るがぬ自信を与えているものが何であれ、それは他のイシュタル人にはないものだった。

「間違っている」とわたしは呟く。その言葉は重く、意味のあるものだった。

わたしを見据えたキヤナの目には、イシャオカンの光があった。「ならね、アヤ、あなたと私はそれを変える、そういう人間になりましょう」


一年ぶりに着るローブは妙な感じがした。他のユン・タルがいるせいかもしれない。この広間のせいかもしれない。ここに戻ってくるのは試験以来初めてのことだった。

壁には今でも魔法が輪になって渦を巻いており、その深奥に見えるものは、わたしたちの最古の歴史に出てくるフレヨルドなのだということが、今のわたしにはわかっている。いつかわたしは、その山道を歩くだろう。

扉から、一人の研究生が入ってくる。彼女の自信に満ちた笑みは、かつてユン・タルとなった我が子を誇らしく思って、わたしの母が見せた笑顔を思い起こさせた。

彼女のために、泣きたいような気持ちになる。

一堂に会したユン・タルは心の中で肯き合う。ギャラリーの正面左側にいるミヴァシムが、わたしに向かってうなずく。その目には、今も誇りが輝いている。わたしも同じ仕草で応え、キヤナを見やる。その顔からは何の感情も読み取れないが、キヤナがいることは心強かった。ここに集う者たちの「あやまち」を認識しているのは、わたしだけではないのだ。

これまで教え導いてくれて、ありがとう、ミヴァシム。あやまちを正すため、わたしは学んだことを活かします。キヤナと共に、いつかわたしは完璧な弁証をしてみせます。あなたがユン・タルに加わった当初の怒りをも晴らせるような論告を。

その時、どうかあなたに、その言葉を聞く覚悟ができていますように。

研究生が前に進みでる。中央広間は静まり返る。