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いやいや、そこなら空いてるよ。椅子を持ってきて何杯かひっかけるといい…まあワシの経験からすると「ひっかける」ってのは縁起でもない言葉だがな。
ワシはいくつも難破の現場を見てきた。自分の船が難破したこともある。あんたのように若かったころだ。船の名前はオフィーディアン号。ノコギリ海峡に沈められちまったんだ。ちなみにワシはただ一人の生き残りだ。一杯奢ってくれたら話してやっても構わんぞ。
これか?いや、これは使っちゃいけないカネなんだよ。これは幸運のクラーケン、供物として捧げるためのな。
供物さ。供物ぐらい分かるだろう?誰だって知ってる。「供物を捧げよ、さもなくば海の怒りを受けよ」ってやつだ。
ん、「髭の貴婦人」のことさ…じゃああんた、あのノーチラスのことも聞いたことがないってのか?深海の巨人の話を?
大将、ワシらに一杯づつ頼む…そうそう、ありがとよ。こういう話をするときゃ、エールでも飲みながらじゃないとな。しかもこのお若いのが奢ってくれるってんだ。
ああ、うめえな。最高だ。
さて、ありゃあ今から30年近く前、ワシらが漁から戻ってきたときのことだ。ワシはモリ撃ちだった。スローターフリートって船団のなかでも一番の腕利きだった。ワシらはちょうど斧ヒレのリヴァイアサンを獲ったところだった。どでかくて獰猛な怪物さ。その怪物を港まで運んでいく途中だった。夜明け前にな。ビルジウォーターの街の灯りが遠くでゆらめいて、ワシらを呼んでいた。カミソリウオやら人喰いザメも船の近くをうろついてた。斧ヒレから流れ出る血を嗅ぎつけたんだな。
ワシらの船長のことは…誰もあんまり相手にしていなかった。信頼できねえ奴だったのさ。出航するときも供物を捧げたとかとぼけやがってよ。「クラーケン金貨を一枚。きっちりな」だと。
だが船長が金貨を船の外に投げるところを見た奴は誰もいなかった。だからみんな疑ってた。何しろ奴がケチなドブネズミだって知っていたからな。でもワシらはそのまま沖へ出た。
そのときさ、巨人に襲われたのは。
何の前触れもなく巨大な錨が深海から向かってきたんだ。錨は竜骨をきれいに貫通して、主甲板まで突き破った。そしてがっしりと船を「ひっかける」と、ワシらを海の底へと引っ張り込み始めたんだ…それはもう大変な有様だった。船員は船から放り出され、水は渦を巻き、屍肉食らいは腹を満たしていた。ワシは船長をつかんで怒鳴りつけたよ、「この嘘つき野郎!供物を捧げねえから、貴婦人の罰を食らったんだろうが!」って。
船はどんどん沈んでいった。けれど厚板が割れたもんで、錨は船から抜けて海の底に戻っていった。そこで終わってくれたら、もっと大勢逃げられたんだが。
でも終わりじゃなかった。ノーチラスはワシらをまだ懲らしめる気だったんだ。
船が突然、右側に傾いた。巨人の重さのせいさ。甲板によじ登ってきたんだ。昔は人間だったのかもしれないが、あの夜ワシが見た波間から出てきた奴は、人間なんかじゃなかった。ワシは船長の喉元をひっつかんだ。「あんたのせいだぞ!」って叫びながら、あの野郎の首を絞めてやった。あいつは目をひん剥いた。ノーチラスがこっちに近づいてくるのが見えたからだ。
傾いた甲板の下の方に船長を突き飛ばすと、ノーチラスは船長を片手でつかみ取りやがった。信じられないだろうけどな!奴はそりゃあデカかった。船長を握りしめても指が余るぐらいだ。その船長だって小男ってわけじゃねえんだぞ。
「そいつが供物だ」とワシは叫んで、船から海に飛び込んだ。
どれくらい海の中にいたのかは覚えてねえ。ほんの数秒だったんだろうが、まるで永遠みたいに感じたよ。海の屍肉食らいにはやられずにすんだ。「母なる大蛇」様のおかげでな。ワシは海峡に顔を出していた岩礁の上に乗ることができた。そこでオフィーディアン号が沈むのを見届けたんだ。
ノーチラスはまだ船長をつかんだままだった。船長は虫みたいに身をよじっていたが、あの手から逃げられるものか。巨人は石像みたいにただそこに突っ立っていた。俺は奴らがどんどん闇の底へと沈んでいくのを見ていた。
なぜ俺を見逃したのか?本当のところは分からねえよ。きっと捧げものをしようとしたのが俺だけだったんだな。もしかしたらノーチラスは、この話を語らせるために、誰かを生かしておきたかったのかもしれない。今だってビルジウォーターの暗黒の夜に――あの恐ろしい霧がやってくるときは、奴が浅瀬からゆっくりと、あの呪われた錨を引きずりながら出てくるかもしれねえ…
ワシの助言が聞きたいか、お若いの?ポケットには常に金貨を入れておきな。そして供物は必ず捧げるんだ。それと自分の目で見ないかぎり、船長が供物を捧げたと言っても信じるなよ。
あんたがワシほど幸運とは限らないからな。