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人々は、アイオニアに「精霊の花」が咲くことはもうないのではないかと案じていた。均衡崩壊の予兆は、アイオニアとそこに住む者たちを苛んでいた。近年子供たちは、精霊の花も花祭りも知らずに成人を迎えるようになっていた。
しかしパスコマには、長い人生のうちに学んだことがあった。どんなに長い間咲かなくとも、精霊の花は必ず戻ってくるのだ。
そして今、戦争が始まって以来初めて、精霊の木に新芽が芽吹き始めている。繊細で真珠のような輝きを放つその芽は、ほのかに甘い香りを辺りに漂わせていた。パスコマは最後の祭りのことをよく覚えていた。それは孫娘が生まれた数年後の夏だった。夫のオケレイと一緒に、彼女は精霊の茶を飲み、今は亡き愛する者たちと言葉を交わしてその無事を確認し、今も彼らが皆の心に生き続けていることを伝えた。そうすることで、残された者たちは死者に別れを告げ、安らぎを得て前に進めるのだ。そして亡き者たちは、この先も一族が繁栄を続けることを知り、安心して霊的世界に戻って行くのだった。
だが今年の祭りでは、彼女の隣にオケレイはいない。オケレイはノクサスの侵略後間もなく、戦死してしまったのだ。彼に話したいこと、聞きたいことが山ほどあった。
しかし、パスコマには準備しなければならないことがあった。
パスコマの茶屋には名前がなかった。ウェイ・レを訪れる者たちは、入口の外に置かれた特徴的な木彫りの茶瓶を見て、そこが茶屋だと知ることができる。パスコマが茶屋を建てた当時、彼女は腕利きの木彫り職人に、季節によりそれぞれが異なる色の花を咲かせる数種の木々を使ってその茶瓶を作るように頼んだのだった。今の時期、その茶瓶は鮮やかな赤紫色をしており、その半分は桃色のランタンに覆われている。
「イツレン?」パスコマは茶屋の中に声をかけた。「あなたの出番よ」背の高いイツレンは、ランタンを高い木の枝に吊るすことができる。
「ああ、何なりと」寡黙なイツレンは、パスコマに笑顔を向けながら、彼女が指さした場所にランタンを吊るした。しかしその微笑みはどこか悲しげだった。何かを案じているようだった。
イツレンは、終戦の日からパスコマの恋人であり伴侶だった。しかし、精霊の花祭りが開かれない年が続き、二人はパスコマの夫であるオケレイの魂とまだ話せていなかった。オケレイから祝福を得ることができていないため、パスコマは再婚はまだできないと感じていた。数十年前に妻を亡くしたイツレンは、辛抱強く理解もあったが、やはり不安を抱えていた。パスコマは彼を安心させようと精一杯努力したが、もしオケレイが再婚を許してくれなかったらどうすればいいのか、正直分からなかった。
パスコマとイツレンはランタンを吊るし終えると、茶屋に宿泊する客の部屋、そして客たちが共に使う場所を整え始めた。ワインで床を洗い、すべての鏡の前に蝋燭を置き、花祭りを目当てに詰めかけてくる大勢の客たちのために、部屋部屋に間仕切りを設けた。二人は朝早くから作業を始めていたが、誰かが扉を叩く音が聞こえた時、辺りにはすでに黄金色の午後の陽光が降り注いでいた。「過去の喜びが花咲かんことを、エマイ!」それは聞き慣れた声だった。
イツレンとパスコマは揃って困惑した表情を浮かべたが、しきたり通りに「今日の悲しみが萎れんことを」と返した。その声はパスコマの娘ツラシの声によく似ていたが、そんなはずはなかった。ツラシは入り江の反対側にあるシアツエという村に住んでいた。ここへ来るにはひと月ほどもかけていくつも山を越えなくてはならないはずだ。
しかし、扉を開けて入ってきたのはツラシだった。彼女の笑顔は父親とそっくりだ。パスコマは娘に駆け寄るときつく抱きしめた。「ツラシ、来るなら言ってくれればよかったのに!ああ、びっくりした。サトッカはどこ?クモヒは?」
「サトッカは外で荷物を見てる。クモヒは…村にいるわ」パスコマは、夫の名前を口にするツラシの声が強張っていることに気が付いた。「花祭りだし、驚かせようと思って来たの。サトッカもおじいちゃんに会えることだし」
イツレンは何かを問うような目でツラシを見た。「先週つぼみが付いたばかりだよ」
ツラシは眉をひそめて何か言おうとしたが、ちょうどそこに不機嫌そうな若い娘が扉を蹴り開けて、木製のトランクを引きずりながら入ってきた。イツレンは手を貸そうとかがんだが、彼女はその手を振り払った。ツラシは娘をにらみつけた。「サトッカ、イツレンに手伝ってもらいなさい」
「自分でできるからいい」サトッカはそっけなくそう言うと、トランクを部屋の真ん中に置いてまた外へ出ていった。
パスコマはツラシに向き直った。「お祭りのために来たの?」
ツラシは少し躊躇してからうなずいた。「そうよ。お祭りのために来たの」
娘の嘘はどうでもよかった。パスコマは娘の目の下の隈を見て、彼女には時間が必要なのだろうと察した。パスコマはストーブの前に膝をついて種火をつけると、娘を元気付けようと笑顔を向けた。「それじゃ、思い出に残るお祭りにしないとね」
──昔々、この世の均衡は完璧に保たれていた。そこには生命の力が溢れる一本の大樹があり、その枝、葉、花の一つひとつは日の光と雨を万遍なく受けて育つよう、完璧な位置に生えていた。人間、動物、そして霊魂の間には平和が保たれていた。戦いも暴力もない世界には「戦争」という言葉もなかった。
ある日、「番人」と「蒐集(しゅうしゅう)家」が出会った。蒐集家は、番人がいかに多くの魂を霊的世界へ導き、安らぎと幸せを与えてきたかを目にして、彼女に嫉妬心を抱いた──
「ちょっと待って。『番人』?『狐』じゃなくて?」
古くから伝わる物語を語っていたイツレンは、サトッカに遮られて間を置いた。イツレンは、家中の刃物を埋めるのをサトッカに手伝ってもらっていた──台所の包丁や彼のノコギリと大鎌、そしてパスコマが叔母から受け継いだ錆びついた剣。
「『番人』は狐か犬か、それとも豹かもしれないと聞いたことがあるな」イツレンは微笑んでそう答えた。ツラシと一緒にここへ来てから数日が経っていたが、サトッカはほとんど口を利かなかった。イツレンは、この作業と物語をきっかけに、サトッカが話し始めてくれることを期待していた。「狐だと思うのかい?」
サトッカはうんざりしたような顔をした。「私はもう子供じゃない。そんな風に話さないで」
二人は黙って地面を掘り続けた。
イツレンは辛抱強く、待つことは得意だった。
「父さんがその話をする時は」サトッカはゆっくりと話し始めた。「狐って言ってた。だから…狐だよ」
「彼女がカワウソだったらいいかもなと、よく思う」イツレンが柔らかい口調で話した。彼は昔から、霊的世界とは人を人の道から引き離すような、流れの激しい果てしのない川のようなものだと想像していた。そこには俊敏なカワウソがいて、新しく到着した魂を、危険な川の流れに飲まれぬように導いてくれるのだ。
「続けて」サトッカが呟いた。「なんでこんなものを埋めるのかも知りたいし」
イツレンは咳払いをして再び話し始めた。
蒐集家は番人が安らぎへと導いた魂の多さに嫉妬し、ある計画を思い付いた。彼は一番頑丈で、一番大きな音が出る鐘を二つ持ち出すと、それらを溶かした。それから彼は、十二夜にわたって溶かした金属を鍛え、二本の剣を作り出した。一本目には嫉妬心を注ぎ込み、二本目には執着心を注ぎ込んだ。春が訪れ、蒐集家は二本の剣の魂を物質世界に送り、剣は苗木のように地中から伸びていった。
「苗木」。ある二人の兄弟が森の中で偶然その剣を見つけた時、彼らはまさにそう思った。
その親友同士のような兄弟は、この世界における自分たちの役割について理解していた。兄はいずれ父親の名高き剣とともに土地を継承し、弟は父親の船を継承することになっていた。兄弟は、片方は祖国で、もう一方は外国で、それぞれ偉大な英雄になると信じていた。そして、とある春の日、兄弟は森の中で二本の剣の苗木を見つけた。これほどまでの輝きを放つ鋭く伸びた木を見るのは初めてだった。兄弟は力を合わせてその木を切り倒すと、一本ずつ背負って家路についた。
これが生涯最後の共同作業になることなど、彼らには知る由もなかった。二人が家に向かっていると、奇妙な樹液が彼らの首に流れ落ち、二人に恐ろしい考えと感情を吹き込んだ…それは蒐集家が注ぎ込んだものだった。兄弟が敵対したのはその日ではなかったものの、やがて二人は二本の剣を交えるようになり、物質世界にも霊的世界にもかつてないほどの激しい鐘の音が響き渡るようになった。
サトッカは顔をしかめた。「違うよ。その兄弟は自分たちで剣を作ったんだよ。二人は父親が死んじゃった後に、父の剣を溶かして二本にして、お互いに自分の剣の方がいい剣だって考えてたんだ。だから二人とも戦争に行ったんだよ。『蒐集家』とは関係ないよ」
イツレンは汚れた手を拭いながら、今しがた客部屋の床に掘った穴を見下ろした。部屋の床の下にある根は太く立派に育っていた。ほんの少しだけ力を込めて、彼は一本目の刃物を注意深く根の下に差し込んだ。「これは古い物語だ」イツレンは言った。「何世代にもわたって、何百回、何千回と繰り返し語られてきた。どちらの話にも正しい部分はあると思うが、私は今の話の方に慣れ親しんでいるんだよ」
サトッカは錆び付いた剣を指でなぞりながら、しばし考え込んだ。「その兄弟のために刃物を隠しているの?」
「その通り。兄弟がどちらも剣を持つことができなければ、戦うこともないからな。昔の争いを忘れ、祭りを平穏無事に運ぶために大切なことなんだ。見てごらん」イツレンは、別の根の下にしまい込んだ大鎌を指さした。「平穏な環境に育った根に剣を委ねれば、暴力に根ざして育ったあの剣の苗木のようにはならないんだよ」
イツレンは、サトッカが残りの話も聞きたいだろうかと考えたが、まだ薄い絹膜のような、ようやく生まれ始めた二人のつながりを破ってしまうかもしれないと思い直した。その代わりに、イツレンは剣に手を伸ばした。
サトッカはそれを大切そうに抱えて言った。「だめ。私が埋める。どこに埋めたらいいか教えて」
それだけで十分だった。
イツレンは、根を傷付けずにその下を掘るにはどうしたら上手くいくかサトッカに教えた。二人は家中あちこちを回り、それぞれの部屋の根の下に刃物を埋めた。二人がそうしている間に、母と娘はここへ到着してから初めて真剣に言葉を交わす時間を持つことができた。
夕食の後、イツレンとサトッカが刃物を埋めに行っている間に、パスコマとツラシは上等なワインのコルクを抜いた。舌先に残るココア桃の豊かな味わいは、なかなか口を開こうとしない娘との重たい会話を、わずかながら楽なものにしてくれた。三杯目に入り、ツラシはグラスに入ったワインを回しながら、液体の中で揺れ動く火の光を眺めていた。
「ツラシ?」パスコマはどう聞けばいいのか迷って、間を置いた。ツラシは顔を上げて母親と視線を合わせた。「クモヒはどうして村に残ったの?なぜ一緒にお祭りに来なかったの?」
ツラシがまだこのことについて話したくないということは、パスコマにも分かっていたが、二人が茶屋へ来てからもう三日が経っていた。パスコマは、それがウェイ・レにいる娘たちにまで危害が迫るような類の問題なのか、二人の安全のために自分とイツレンにできることが何かあるのか、確かめなくてはと考えていた。よそ者が大勢町へやって来る祭りの間は、特に警戒しなくてはならない。
ため息をついてツラシは話し始めた。「ノクサスの船が入り江を通って、シアツエや、海岸沿いの他の村と交易をしてる。彼らはすごく…注意深いの。自分たちは何もするつもりはない、誰にも危害を加えるつもりはないって言ってる」ツラシがあまりにもきつく手を握るので、パスコマはグラスが砕けてしまうのではないかと案じた。「でも、シアツエの村人の中には、そのノクサス人たちが上陸して辺りを調べたり、鳥を放して調べさせたりしてるのを見たという人たちもいる。だから、ノクサスはアイオニア侵攻を諦めたわけじゃないんじゃないかって」
パスコマはうなずいた。過去の侵攻は同じような調査の後で始まったため、彼女には娘が不安になる気持ちが理解できた。「それでクモヒは?」
「クモヒは自分でそれを見たわけじゃないけど、目撃した友達や近所の人たちの言うことを信じてる」
「だから彼は自分の目で確かめるために残ったのね」
「そうじゃないの」ゆっくりとワインをすするツラシの手が震えていた。「ノクサス人を追い払おうとしてるの。ノクサスの船によじ登って、物資を全部海に投げ捨てた。今のところはそれだけだけど…」ツラシの声は小さくなっていった。
「反乱軍ね」オケレイも昔、同じような民兵組織の一員だった。
「ノクサス人が反乱に気が付いて、次々と船を送り込んできてる。兵士の乗った船を。もう逃げないと危ない」ツラシは自分の膝を抱え込んだ。「でもクモヒは反対したの」
パスコマは立ち上がってツラシの額に優しく口づけをし、両手で娘の顔を包んだ。「あなたとサトッカが来てくれてよかった。お祭りが終わってもここにいるといいわ」
ツラシは涙を流しながら、嗚咽交じりに囁いた。「母さん──」
「だめ」パスコマはツラシの両手を握りしめた。「もう戦争で大切な人を失いたくないの。だからここに居て」
翌日、サトッカは頼まれた用事のために市場を訪れていた。イツレンは壊れた装飾用の鐘と取り換える新しい鐘を受け取り、サトッカは祖母が自分と母のために注文した二枚の仮面を受け取ったところだった。予定では、用事を済ませたサトッカはイツレンと合流して一緒に家に帰るはずだった。祖母の茶屋へと。
しかし、彼女は祭りのために並べられた様々な品物にすっかり魅了されていた。着物や焼菓子、そして花々… 精霊の花祭りに最後に来た時サトッカはまだとても幼かったので、その時のことはほとんど何も覚えていなかった。
焼菓子の屋台に見とれているうちに、彼女はその少し先に大きな人形劇の舞台があるのを見つけた。大きな木の板の中央に半透明の紙が張られたその人形劇場は、広場の真ん中に設置されていた。人形師たちが複雑な切り絵の人形を動かし、火を使うメイジが光を当てて影を作り出していた。語り手が劇場の前に立ち、熱心に耳を傾ける観客に、人形の動きに合わせて物語を語り聞かせていた。
「そうして『絶望』の魂は、ツェツェグアに尋ねました。『本当に彼を見つけられると思うのかね?』絶望の前で希望を語れば、希望はかき消されてしまう。それを知っていたツェツェグアは、ただうなずきました」
サトッカの顔が険しくなった。彼女は劇の美しさに夢中になっていたが、話の内容を聞いて我に返った。ツェツェグアが恋人を探して霊的世界へ行ったとしても、絶望と話すなんておかしい──だって、絶望は誰とも口をきかないんだから。
「絶望は眉をつり上げて言いました。『力になってやってもいいぞ。定命の女よ、名は何という?』ツェツェグアは機転を利かし、『ナルグイ』と答えました。何者でもない、と。こうして失った恋人の魂を探すツェツェグアに、絶望が力を貸すことになりました。しかし絶望は彼女の本当の名前を知らなかった。だからツェツェグアは絶望に支配されずに済んだのです」
ツェツェグアのこの間違った物語を聞いて、サトッカの頭の中に父の話してくれた物語が明るくきらめいた。サトッカは、父親と一緒にシアツエに残りたかった。自分なら反乱軍の助けになれただろう。背が高くて丈夫な自分なら、一緒にノクサスの荷物を海に投げ捨てれられたはず。あいつらは、そうされて当然だ。サトッカに戦前の記憶はなかったが、アイオニアがその時に失った何かをまだ取り戻せていないということは分かっていた。
がっかりして彼女はその場を去ろうとした。しかし、劇場の周りには人が集まり始めていた。それは予想もしなかった者たちだった。
ウェイ・レにノクサス人がいたのだ。
彼らは鎧も武器も身に着けていなかったが、ノクサス人特有の表情で見分けがついた。それは生まれながらの敵意、あるいは自分が周りの者よりも優れているという滲み出る優越感。
しかし、ここにいるノクサス人たち──中年かそれより若い六人は、様子が違っていた。彼らの顔はどこか申し訳なさそうで、まるでこの祭りが自分たちのものではないことを承知しているかのようだった。だが、いずれにせよ奴らがここにいる。サトッカのはらわたが煮えくり返った。
市場にいるアイオニア人は全員彼らから距離を置いていた。屋台から屋台へと囁き声が広がったが、彼らに立ち去れと告げる者は一人もいなかった。ノクサス人の若い女の一人が、躊躇いがちに愛想笑いを浮かべた。小銭の入った小袋を持って、彼女は焼菓子の屋台に向かって歩き始めた。
サトッカは誰かが何か言ってくれることを期待して周りを見渡した。何か行動してくれないか、と。
だが、これは自分の出番なのかもしれないと彼女は思った。
サトッカは、焼菓子に近付くノクサス人の女が自分の方を向くまで睨み付けた。女は挨拶でもするかのように手を伸ばした。
サトッカは目を逸らさずに女の足元に唾を吐いた。
恐怖に息を呑む気配が人々の間に広がった。その瞬間、誰かがサトッカの肩を乱暴に掴んだため、彼女にはノクサス人の一行がどんな反応をしたのか目にすることはできなかった。サトッカが見上げるとそこにはイツレンがいた。サトッカの振舞いに対して頭を下げて謝り、彼女をその場から連れ出した。
イツレンが角を曲がる隙にちらりとサトッカが後ろを盗み見ると、ノクサス人たちはただそこに立ちすくんでいた。自分が唾を吐きかけた女は困惑しているように見えた。サトッカの胸に誇らしさが湧いてきた。いい気味だ。ノクサスの連中は肩身の狭い思いをするべきなんだ。
二人は追われる可能性を考えて、念のため祭りの会場の外を周った。だがイツレンの持つ新しい鐘が、歩みにつれて音を鳴らした。結局イツレンは鐘を捨て、サトッカを茶屋へと連れ戻した。
裏口から中へ入る前に、イツレンはサトッカの正面に向き直った。サトッカはイツレンの表情を見て驚いた──これまで彼女は、彼の楽しげな表情や、疲れている表情以外見たことがなかった。だが今、イツレンの目にあるのは恐れだった。「彼らは、皆と一緒に祭りを楽しむために来ただけだ、サトッカ」これほど厳しいイツレンの声を聞くのは初めてだった。「あんなことをする必要はなかった」
サトッカはシアツエにいる父親やレジスタンスの人たち、そして今この瞬間にも故郷に攻め入ろうとしているノクサス兵のことを考えた。
「私は間違ってない!」
ツラシはほとんどパニック状態で居間に駆け込み、真っ直ぐに母親の元へ向かった。パスコマは、ちょうど新しい女性客に茶瓶や綺麗なシーツとタオルを渡したところだったが、恐怖と怒りをあらわにしたツラシの顔を見て、その女性に待ってもらえるよう断りを入れた。
「一体どうしたの?」パスコマは優しく尋ねた。ツラシは歯を食いしばったまま、市場で娘とイツレンに起きた出来事を話した。鐘を持ち帰らなかったことをきまり悪そうに謝るイツレンから詳しい話を聞き出すのにも時間がかかったが、さらに自分の犯した過ちについてサトッカから話を聞きだすのは、石から水を絞り出すほど大変だった。
「あの子がそんなに無謀な、危ないことをするなんて信じられない!」ツラシは、ウェイ・レの実家に家族を連れてきて本当によかったと思っていたが、街にノクサス人がいたというだけでなく、あろうことかサトッカは彼らの注意を引くような真似をしてしまった。これではシアツエを離れた意味がなくなってしまう。
「ツラシ、あの子は大人になろうとしているの。自分の殻を破ろうとしているのよ」
「でも、そのせいで殺されかねない。ノクサス人は…たとえ武器を持っていなくても、あの侵略軍に仕えた兵士たちは一人残らず冷徹な人殺しだって知ってるでしょ?」
「あの、すみません」二人は驚いて振り返った。先ほどの新しい客が、自分の部屋の入り口に立っていた。背の高い、暗い色の髪をした女性で、外套のフードの陰から珍しい琥珀色の目が見えた。「ウェイ・レに兵士がいるとおっしゃいました?」
「ええ、言いました」ツラシは動揺を隠せなかった。ツラシは自分たちが話をしながら、徐々にこの客へ近づいていることに気付かなかった。茶屋の中で、奇妙にもこの女性の周りの空気だけは輝いているようだった。一瞬、ツラシは自分が夢を見ているのではないかと思った。「戦争のために訓練された人たちです。あの人たちはこの街から出て行くべきですし、私は──」
「あら…」客は気さくな笑顔でツラシの言葉を遮った。「違うの、私は身を護ってくれる人を探しているの。護衛してくれる人を。街に強い兵士がいるのなら、居場所を教えてもらえれば自分で話しに行くから──」
「それはできません」パスコマは断固とした態度で言った。「お祭りの間、危険な者たちをここへ入れることは許可できません。どうしても護衛を見つけたいのでしたら、他の茶屋をお探しください」パスコマは客からシーツやタオルを返してもらおうと、両手を差し出した。
しかし、客はそんなパスコマに感心して明るい笑い声を上げた。「街で一番の茶屋はここなんでしょう?それなら私はここに泊まりたいわ。あなたの言う通り、危険な人物を連れて来ることはしないから」
女は片目をつぶると部屋の中へ姿を消した。パスコマはため息をついて娘に向き直った。「あの子は大丈夫よ、ツラシ。サトッカは賢いから、いつまでも狙われるなんてことはないでしょう」
言葉が喉につかえて出てこなかったが、ツラシはうなずき、母親に向かって微笑んだ。ツラシは母親の気遣いに身を任せることがどれほど心休まるものだったか、すっかり忘れていた。あの頃はただ庇護を受ける子供だった。
もちろん、今は当時とは異なるが。子供の頃、ツラシが両親の不安や恐れを見ることはなかった。両親は山や海のように強く、ずっとそばに居てくれる存在だと信じていた。しかし父親が亡くなり、途方に暮れて不安気な母の様子を目にして、初めてツラシは現実を知ったのだ。
間もなく精霊の花が咲こうとしている。彼女は父であるオケレイが戻ってくることについて考えた。望んだ答えが得られなかったら、母は一体どうするのだろうか?
そもそも、ツラシにはパスコマが心の奥でどんな答えを望んでいるのか分からなかった。
サトッカがこんなに豪勢な夕食を目にするのは生まれて初めてのことだった。祭りの初夜を祝い、パスコマが茶屋に滞在している客のため、二十人分ものご馳走を作り上げたのだ。サトッカは皿いっぱいの食べ物で腹を満たすと、他の滞在客たちと語り合った。祖母の家に滞在する間に、客とのお喋りはサトッカにとって一番の楽しみとなっていた。
誰もが仮面や衣装を身に着けていた。ツラシは、祭りの間は仮面を外さないようにとサトッカに言い聞かせた。あのノクサス人の一行が、仕返しをしようと目を光らせているかもしれない。サトッカは気にしていなかったが、自分の仮面はとても気に入っていた。凝った作りの仮面には大きな飾り角が付いており、歪んだ目にはいたずらな笑みが浮かんでいるようだった。それは全ての死を看取ってきたという、「魂狩り」という小さな女の子の顔だった。
夕食の間、サトッカは魂狩りについて琥珀色の目の女性客と熱く語り合っていた。女は「狐」──ウェイ・レ流に言えば「番人」の扮装をしていた。本物のようなふさふさの耳を頭に付け、顔には狐の髭のような模様を描いていた。
「でも、魂狩りは人が死ぬ時にその場にいるんだよ」サトッカは譲らなかった。「だから魂を霊的領域に導くのは、きっと彼女なんだ」
「それならなぜ」客は楽しそうにゆっくりと話した。「私たちは死者の口のなかの一番尖った歯を抜いて、手に握らせたりするのかしら?それは魂狩りのためじゃないと思うの」
サトッカは肩をすくめた。「帳(とばり)を通るための通行料だよ」
「一体誰のための?その歯をもらうのは誰だと思う?それはね、クーマイアよ」
「クーマイア?」
「あなたたちが言う『番人』のこと。彼女は皆の歯を連ねた、果てしない長さの首飾りを身に着けているの。自分が霊的領域へと導く魂が、かつて持っていた命を理解するために。だから霊界に着く頃には、その魂が安らかな道を往くのか、ラクサズムの苦しみの道を往くのか、彼女には分っている。魂自身もまだ知らないことを。彼女は苦しむ運命にある魂を救うためにできる限りのことをするわ。でも彼らの運命はすでに歯の中に記されているの」
「本当に?」サトッカはこの数週間の間に、ウェイ・レとシアツエでの物語の違いに慣れてきていた。今では彼女は、次に父親に会った時、ここで聞いた物語を全て話して聞かせることを楽しみにしていた。
女性客はクスクスと笑った。「嘘よ。今のは私の作り話」
「なぁんだ」
「私が知る限り、歯を抜くのは死者の年齢を祝うためよ。賢い老人のすり減った歯や、人生の盛りに命を絶たれた若い兵士の鋭い歯…」ふと話を止め、彼女はサトッカに微笑んだ。「でも私は、まだ語られていない物語を語るのが好きなの」
デザートの時間になると、サトッカはイツレンが今夜のために二日かけて作った焼菓子を夢中になって食べた。底の方が少し焦げてはいたが、真ん中に詰められた甘くてねっとりした部分がとても美味しかった。
イツレンは焼菓子を配って回った。最初にサトッカに、最後はあの見事な付け耳を付けた客に手渡した。客はイツレンの腕に手を置くと、彼の目をじっと見つめて小声で何かを尋ねた。
サトッカは、イツレンの目が泳ぎ、そしてうなずいてこう言うのを目にした。「もちろん構いませんよ。あなたが招きたい方なら誰でも歓迎します。剣を使えるかどうかは関係ありません。ここでは人を差別するようなことはしませんから」
客は感謝するようにイツレンの腕を握った。「ありがとう。奥様にもそう伝えてね。あなたみたいに理解してくれるかどうか分からないけれど」
イツレンはもう一度うなずいたが、彼が台所に戻ろうと振り返った時、その目の色が普段と違っていたことにサトッカは気が付いた。光の錯覚とも思えるようなほんの一瞬、普段はとび色のイツレンの目が、サトッカの隣に座る狐の耳の女性と同じ、琥珀色になったのだ。
日の光の最後の一筋がようやく海の向こうへ消えると、満開に咲き誇った精霊の花が、月明かりの下に輝き始めた。祭りの参加者たちは歓声を上げた──長い時を経て、ようやく花が戻ってきたのだ。人々はランタンの灯を持って山中の寺院へ向かい、その温かく楽し気な明かりが、枝々に咲き乱れる幻妖な銀色の光を打ち消した。
パスコマは、自分も他の皆のように心から愉しめたらよかったのにと思った。宴の後、パスコマと仮面を付けたサトッカは盛装し、オケレイの花を探しに出かけた。その花があればパスコマはオケレイの魂と繋がり、会話を交わすことができる。パスコマはこれまで、目当ての花をすぐに見つけることができた。命ある者の心臓の鼓動と、愛する者の止まった心臓の間には、必ず繋がりがあるのだと言われていた。
しかし今回は…木に宿った魂の数があまりにも多かった。
こんなにも豊かに花の付いた枝を、パスコマは見たことがなかった。木に宿ったのはアイオニア人だけでないと言う者たちもいた。ノクサス人が、死後ですら自分たちの祭りを穢しているのだ、と。遠くの方で、その不安を認めるかのように鴉たちが鳴いた。パスコマはその噂を信じていなかった。理由はもっと単純なはずだ。今回は今までにないほど多くの魂が戻ってこようとした、それだけのこと。木々の枝には、愛する人と繋がりを求める者たちの期待がのしかかっていた。
パスコマはまだオケレイを見つけられなかった。
パスコマはオケレイの魂が迷ってしまったのではないか、向こう側で安らぎを見つけられていないのかもしれない、それとも単に自分と話したくないのかもしれないと不安になった。もしかすると、離れている時間があまりにも長かったせいで、二人の繋がりはすでに断たれてしまっているのかもしれない。
パスコマは、今にも溢れそうな涙を堪えながらも微笑みを絶やさず、花を探し続けてくれるようにサトッカに頼んだ。孫娘にとって初めての精霊の花祭りを、自分の悲しみのせいで台無しにすることはできなかった。本来この祭りはお祝い事で、再会から得られる喜びをサトッカが理解することが大切なのだということがパスコマには分かっていた。
宴の後片付けを終えたツラシとイツレンも、二人に加わった。「父さんは見つかったの?」ツラシが仮面を付けながらそう尋ねた。頬に涙の彫られた、美しいツェツェグアの仮面だった。パスコマは、締め付けられるような喉の感覚のせいで声を出せず、ただ首を振った。「じゃあ、サトッカと私が探すわね。母さんは少し休んだらどう?」
パスコマはイツレンに連れられてベンチに移動すると、座って辺りを見回した。何組もの家族が、精霊の茶が入った茶瓶を抱えて涙を流しながら、愛する者にもう少しだけ居てほしいと懇願している。子供たちが枝を剣に見立てて、兵士になりきって遊んでいる。可笑しいくらいに真剣な表情で。祭りの周囲で、鴉の鳴き声を耳にした者たちが不安そうにひそひそと言葉を交わし、不信と軽蔑の眼差しを精霊の木に向ける。
それは、パスコマの記憶にある精霊の花祭りとは異なる光景だった。元通りになることは果たしてあるのだろうかと、彼女は思いを巡らせた。
遠くの方から、一定のリズムを刻む太鼓の音が聞こえてきて、近くの山の頂から炎が燃え上がり、パスコマは祭りから目を離した。そして自分の胸に手を当てた──聞き覚えのある音だった。それは激しい戦いの後、ノクサス人が巨大な薪の山の上で死者を火葬する時の音だった。
パスコマはため息を漏らした。「どうしてこんなにいつまでも、過去を振り返らなくてはならないの」
「それがこの祭りの本来の目的じゃないのかい?」
「いいえ」パスコマは炎に背を向け、木々を見上げた。「このお祭りは過去から解き放たれ、未来に向かって進むためにあるのよ。人々はそのことを忘れているわ」視界に入らなくとも、パスコマは自分の体に脈打つような炎の熱を感じることができた。その炎は、パスコマと家族を、彼女を取り巻くすべてのものを、過去と未来のすべてを呑み込もうとしているかのようだった。「だから、これは違うと思うの」
「何が違うんだ?」
「みんな過去から解き放たれているように見える?」パスコマは辺りを手で示して、悲しそうな声で尋ねた。「それとも、戻ってこようとしている過去に縋(すが)りついているように見える?」
温かい手が彼女の手を包み込んだ。パスコマがイツレンの顔を見上げると、彼は優しい声で語りかけた。
「オケレイの花が見つからなくて神経が昂っているだけだよ」
彼女の頬を涙が伝った。「みんな…みんな変わってしまった。精霊の花は戻ったけれど、私たちは以前のように戻れるの?一体どうしたらいいというの?」
イツレンが彼女の手を優しく握りしめた。「まだ時間はある。一緒にオケレイを見つけよう。君と彼の心の繋がりは、見たことがないほどの、とても強い繋がりだった。いや、今も繋がっているはずだ。彼と話せば君にも分かるはずだよ。変わるものもあるが、決して変わらないものあるということが。オケレイは永遠に君を愛しているし、君も彼のことを永遠に愛している。そして彼の答えがどんなものであろうと…」イツレンは間を置いて、パスコマの手を自らの唇へ運んだ。「彼と話すことで、君も君の家族も安心することができる。それこそが僕の望むすべてなんだ」
パスコマは長年愛した男を見つめ、その強張った笑顔は心からの笑みに変わった。彼女はお返しにイツレンの手を握りしめた。「あなたも私たちの家族よ、イツレン」
涙が伝う前にイツレンは目を閉じ、彼女の手を自分の胸に押し当てた。パスコマは指先に彼の心臓の鼓動を感じた。力強く、確かなリズムで刻み続ける生きた鼓動を。
彼女は初めて、自分の望んでいたことに気が付いた。オケレイが何と言おうと心が変わることはない。
パスコマは過去を解き放ち、イツレンとともに未来に向かって進む覚悟を決めたのだ。
六人のノクサス人は、自分たちの儀式を内密に進めようとしていたが、ノクサスの戦死者を称えることにこだわった結果、注目を集めてしまった。彼らはアイオニア式のやり方で死者を弔うために、入り江の真ん中にある小さな島からやって来たのだった。しかし、週の始めにウェイ・レの精霊の花祭りから追い出された。それで六人は祖国の伝統を守り、彼らが唯一知る方法で死者を弔うしかなくなってしまった。このノクサス人たちは、大した荷物も持たずに旅をしてきたが、追悼式はなんとかその場で用意することができた。
ローナは狼皮の太鼓を叩き、ジョットとサムザは火をおこし、ヘリアとアーノットは倒木と麻紐を使って弔いの像を作った。ジャクルットは、サムザが食べ残した祭りの焼菓子を火の中へ投げ入れた。市場での出来事があってから、誰もその焼菓子を食べようという気にならなかったため、それはこうして最初の供え物となったのだ。焼菓子が燃えると、焦げた蜂蜜の匂いが辺りに漂った。そこに高貴な家庭に生まれ、司祭になるための修練を積んだおかげでこの手の儀式の演出が得意なジャクルットが、炎の中に弔いの像を投げ入れた。
「彼らの魂を我ら大空へ送らん」ジャクルットがそう唱えると、その声は澄み渡った静かな夜に響き渡った。「かくして彼らの灰を、世界に降らせたまえ」
「彼らの死をもち、海の彼方へノクサスを導きたまえ」他の者たちが囁いた。
「彼らの肉体が肥やしとなり、我らを育てんことを」
「彼らの死の、無駄には終わらんことを」
「彼らの魂の──」
突然強い風が吹いて、炎が星空に届きそうなほど高く燃え上がり、ジャクルットは祈りを中断した。ジャクルットは圧倒されてしばらくの間黙っていた。
これこそが、ノクサスの本当の姿であった。己の進む道にあるものは、自国の民であろうがすべてを燃やし尽くす炎。ジャクルットと仲間は、戦争が終わる前からそのことに気付いていた。彼らは脱走兵だった。彼らは自分たちが捨ててきた人々からも、傷付けてきた人々からも身を隠し、何とか生きて行こうとしていた。
彼らは誰からも必要とされていなかった。
ここはノクサスではない。祖国ではない土地にいる彼らの祈りが神々に届いているのか、ジャクルットには分からなかった。そもそも自分が、神々に祈りを聞いてほしいと思っているのかも分からなかった。祈りの言葉は知っていたが、彼は自分がその祈りを信じているかどうか分からなかった。
精霊の木に咲いた花々が、炎に照らされ脈打つかのように輝いた。ジャクルットは固唾をのんだ。違う、これはノクサスではない。これは何か美しく、危険で恐ろしいものだ。花々がジャクルットの心を動揺させた。あの戦争以来、初めて咲いた花々が。
神々がもはや見ていないとすれば、彼らに目を注いでいるのはアイオニア人の魂だけなのだ。ジャクルットと仲間が殺した人々。彼らに怒りと憎しみの感情だけを抱いている人々。
二度と戦いたくないと願った人々。自らの目であの船を、兵士たちを見た彼らは、それが何を意味するか理解していた。彼らが理解していなかったのは、それが今の自分たちにとって何を意味するのかということだった。アイオニアでの自分たちにとって。兵士としてノクサスに仕えた自分たちにとって。
「彼らの魂の、我らが先祖とともに安らかに眠らんことを」ジャクルットは渇いた喉から声を絞り出した。「来るべき戦いに備え、我らに力を貸し与えたまわんことを」
ジャクルットは、魂にこの祈りが聞こえないことを願った。